雑草魂

映画とか芝居とかライブとか美術展とかの感想

映画「ルワンダの涙 SHOOTING DOGS」

ツチとフツと白人そして無力な国連

世界で起きている民族紛争のほとんどは、宗教的対立で民族的対立で、「平和な」日本に生まれ育った日本人の私には残念ながら理解しようとしても根本的理解は難しい。


そして、(遅ればせながら)今日見たこの映画で知ったのはさらに理解の難しい対立だった。


ルワンダ紛争のツチとフツ。異民族ではないからほとんど見分けはつかないし、言語も宗教も異なるわけではない。あるのは、かつて宗主国ベルギーによって優遇されたツチがフツを迫害していたという歴史、そしてお互いに相手に対し憎しみを持ち、クーデターやジェノサイドで繰り返される報復につぐ報復の歴史。


虐殺された死体に群がる野犬をshootingすることはできても、国連事務総長の命令がなければ襲撃してくる暴徒を銃で制止することもできないという国連軍。かつてユダヤ人を匿った祖父母を誇りに思うと言いつつも、自身は上からの命令通り、撤退=国連軍を頼って避難してきたツチ住民を見殺しにするベルギー部隊の隊長。国連軍の任務は平和を推進することではなく平和を監視することなのだそうだ。国連軍というのはなんて他人事な組織なんだろう。為政者の「命令」でしか動けない忠実なロボットである軍隊にとっては庶民の人命なんてどうでもいいものなんだろうか。


植民地政策時代の身分差別がひきがねなのに、いざ自分たちに火の粉がふりかかってくれば、「ルワンダのことはルワンダ人にまかせればいい」とさっさと逃げてしまうヨーロッパ人。白人が死ぬボスニア内戦では心が痛んでも、黒人が死ぬルワンダ紛争ではダメージが少ないと告白する白人ジャーナリスト。自国民だけを避難させるためにやってきたフランス軍のトラック。


この作品は、神父、若い教師、ツチの若者、フツの生徒、国連軍、ジャーナリストと様々な立場の人間のそれぞれの心情を適度に描くことで、紛争自体よりも、国連軍の紛争介入の姿勢や白人ジャーナリズムのありかたなどを見る者に強く問題提起している。私は白人目線にはなれない。私の気持ちはマリーをはじめとするフツの人々にあった。映画では国連軍が撤退したあとの状況を描いていないけれど(それはきっと映像にするには残酷すぎるだろう)、あのあと、学校内の人々はナタを持って襲撃してきた民兵の前になすすべもなく殺されていったのだろうか。もし自分があの状況で校内に残されたとしたらどうなっていただろう?


国連軍には見捨てられ、白人には逃げられ、ナタを持った暴徒が押し寄せてくる。しかし彼らは組織化されていないし、武器の大半は銃ではなく、あまり切れなそうなナタ。味方側は400人の老若男女。きっと、無抵抗にただ殺されるよりは最後の最後まで徹底抗戦をしたいと思うだろう。

暴力に対して暴力で反抗することは連鎖しか生まない、暴力の連鎖はどこかでとめなくてはいけないと私は考えるほうなのだけれど、あのような極限状態にあってそんな理想論は言っていられない。

学校に取り残された人々はミサで神に祈りをささげ、神の愛に救いを求めていたけれど、神様に祈っても虐殺はとめられない。

映画前半では頑にミサ命だったクリストファー神父が後半ではすっかり表情が変わって、悟りを拓いた聖者のようなかなしい目で現地残留の決意を告げるシーンでは思わず感動してしまったけれど、聖なる行動で非暴力を貫いても、そのまま殺されてしまっては残念ながら世界は変わらないのだ。

もし私が学校内に取り残されたら、やるかやられるか。きっと戦う。民兵の武器を奪って何人か殺せれば上々。...ああだめだ、私には非暴力の思想は難しい。殺しには殺しで報復を。こうやって血で血を洗う憎しみの戦いは続いていくのだろう。

キリストは頬をぶたれたら、もう片方の頬もさしだせと言ったんだっけ。ほんとうに敬虔なキリスト教徒は反撃しないで無抵抗に殺されるのを選ぶのだろうか。クリスチャンでない私にはそれもわからない。

何がいいんだか。どうすればいいんだか。自分なりの答えもみつからない。また非常に考えさせられる映画をみてしまった。